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世の変化を進歩と考えて喜ぶ者は多いが、その一方で失われたものを嘆く声もある。両者は絡み合って、議論はとつおいつしながら、それでも社会は変わってゆく。強い者の声が進路を決める。
この小さな地味な本は、岐阜県西部の徳山村で昭和三年に生まれ、ずっとここに生きた著者の暮らしの記録であり、失われたものへの哀歌である。
山村だから主な営みは炭焼き。漆原(しつはら)にあった家から六キロの道を、著者の父母は毎日歩いて炭焼き窯まで通った。小学生の少年も時おりそこまで遊びに行く。「ある日行ってみたら、尾根の窯場から河原まで、炭木を集めるために急勾配(こうばい)の小道が作られていた。それをたどると河原に出られた。そこには、太い河楊(かわやなぎ)、クルビの木、白く大きい石、白い砂、浅瀬につづく滝のような急流、深く淀む淵、淵に影を落とす崖の松があり、それらのすべてがぼくの遊び場となった」
こんな思い出を持っている者はもう少ないだろう。ぼくはこの情景を想像し、一種めまいのような感覚に襲われる。自分にはあるはずのない記憶があったように思われる。
驚くべきはこの山村になかなかの文芸の気風があったことである。著者の曽祖父、祖父、叔父、父が日記を残している。みな文字の人であったのだ。それだけでなく、村の人々の作品を集めた謄写版の歌集が何度となく刊行されている。
ヒグラシや炭焼き道の往きかへり
昭和初頭、主食は雑穀だった。稗(ひえ)、赤稗、粟(あわ)は石臼でひいて食べた。そのための臼ひき歌があった。それと、長男は嫁をもらって家を継げたが弟分は未婚のままで一生を終える、という事情が重なると――
ほれてくれるな わしゃおと子じゃで
つれて行くよな 家はない
家がないとは そりゃなさけない
家はたがいの むねにある
という臼ひき歌が生まれる(おと子は末子の意味)。
小さな社会の言語生活は豊かだった。含意ふくよかな言葉が多々あった。「はがる」というのは「もたれかかる、寄りかかる」という意味。「幾つになっても親がかりで、親にばっか はがっとって、やくたたん」などと使われる。聞いていて身につまされるのはなぜか。
この村はもうない。揖斐川にダムが造られることになり、徳山村は昭和六十二年三月末日に閉村した。そこへ追い込まれた無念の思いが著者にはある。
たった今、ぼくは「ダムが造られることになり」と書いたが、この受動態は欺瞞(ぎまん)である。誰かがどこかでダムを造ることを決めたのだ。閉村から二十年近くたった去年、ダムは完成し、試験湛水(たんすい)が始まった。しかし実はもう水の需要はないのだ。
この村には濃密な生活があったと言うのは、ただのノスタルジアではない。社会の質がすっかり変わって、しっとりした人と人の仲がざらざらになってしまったことを、この本はいやでも思い出させる。経済の繁栄はなぜ心の荒廃につながったのか。われわれはいったい何と何を交換したのだろうか。
著者の母お志んさんのささやかな楽しみは、山仕事の帰り、朋輩のおきゑさんと道々お喋(しゃべ)りすることだったという。ケータイのメールによる少女たちのデジタルな会話が、お志んさんとおきゑさんのお喋りのように温かいものだといいのだが。
