コラム「僕は村の先生だった」

著者:大牧冨士夫さん
1928(昭和3)年、岐阜県の揖斐川上流、徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。戦争末期を新潟県村松の陸軍少年通信兵学校にすごす。戦後は、大学卒業後、岐阜市での業界紙記者づとめなどをへて、故郷の徳山村の小・中学校で教鞭をとる。かたわら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などにたずさわる。1985(昭和60)年、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。著書に、『郷土資料── 揖斐郡徳山村方言』、『たれか故郷をおもわざる』、『徳山ダム離村記』、『研究中野重治』、評論集『三頭立ての馬車』(共著)、『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などがある。

大牧冨士夫『ぼくは村の先生だった』の第一部『ぼくの家には、むささびが棲んでいた ーー徳山村の記録』、第二部『あのころ、ぼくは革命を信じていた――敗戦と高度成長のあいだ』発売中です。


第7回 大型ダム再調査、方言集

冬の村

昭和44年冬1月、吉田欣一さんから、盗聴されていないだろうなと念を押して電話があった。そのころ岐阜市から村へ電話をかけるには、まず、岐阜電話局を通じて徳山郵便局の交換手を呼びだす。そこで電話番号を告げて初めてつながる。交換は局員による手動で、手数のかかる仕組みだった。吉田さんは、その間に傍受されて会話が洩れる懸念があったのだろう。

名古屋で文学運動をやっている旧知の岡田孝一がアメリカ軍脱走兵を支えるグループに加わり、岡田は、移動する車の運転をしている。ハンドルを握る手が緊張して脂汗がにじむという。吉田さんは、せきこむように、ふだんよりきびしい声で話している。月およそ3万円と、費用がかかり過ぎて音を上げているというので、ぼくは、とりあえず救援カンパ5000円を送った。その後、脱走兵は岐阜市内でも受け入れていた。岐阜市では岐阜べ平連が組織されて集会をしているが、村にいては活動に参加できないという焦りが、ぼくを落ちつかなくさせた。吉田さんはまた、東大全学共闘会議の学生が大学解体で権力と直接対峙しており、それを政府自民党、大学当局と共産党が裏切って入試を復活させようとしている。とくに共産党がそれに同調して加わっているのは許せない、と話していた。いらだたしい語調から、詩人吉田さんのなかで、理想としてきた戦後の共産党像が崩れていく思いが伝わってきた。安田講堂への機動隊突入のあの日は、ぼくもテレビ中継を観ていて授業には遅れて、正直、教室に出る気がしなかった。

この年はそうした社会のはげしい動きを伝えてはじまった。その動きをよそにして、ぼくにはなんの変哲もない村の日々のつき合いがあり、それはそれで対処、解決していかなければならない。この冬、村をかけめぐったのは、大学紛争問題より、電源開発株式会社の徳山ダム建設再調査の決定のニュースだった。10年以上もタナ上げされてきた計画が動きだし、大規模、大容量の発電計画が検討されるという。これから村はどうなっていくのかという不安がたかまり、話は口々に伝えられたが、新聞記事以上に具体的な見通しは分からなかった。全村が水没するという計画は、村人には空を掴むような話だった。

ぼくは、4月には本校への勤務替えがあり、それは父の死という哀しみのうちに迎えた。

新しく担任した5年生の教室はゆっくりと動き出していた。宿直の夜は職員室へ児童がひょっこりと顔をみせ話しにくる。ただ遊びにくる児童もあり、算盤を持ってきて練習したり、授業中に理解出来なかった算数(小数)のプリントをもってきたりするのもありで、その相手をするのはたのしかった。そのうちのひとり、明彦君の家には、村でもいちはやくカラーテレビがあり、モノクロしか観ていないぼくに、朝のドラマの主役のスカートは何色だなどと教えてくれるというふうだった。岐阜市辺りの学校では、事故があった場合の責任問題から消極的になって、放課後に児童が校舎へ出入りするのは禁止している学校まであり、教頭は児童の出入りにいい顔しなかったが、ぼくは遊びに来るに任せた。

宿直は男性教員が交替で勤めた。夜間、不時の出来事に対応する名目で、一晩のうちに何回か校舎を見回ることとなっていたが、山間の小規模学校で問題が起きることはなかった。夜更けに校内を巡回していて窓外を見ると、昼間とまったく異なった風景が眺められて好きだった。暗夜でも目をこらすと眼下の闇のなかに村の家々が蹲(うずくま)るように連なって見え、月光の夜は音もなく静まり、蒼白い絵のような空間がひろがっていた。本校には男性教員が5名いたから順番に回ってきた。土曜や、日曜の日直は、村に住んでいるので割り当てより余計にやるようになった。宿直手当は一回につき510円、土曜日午後から明朝まで宿直すると765円の手当がついた。月に4,5回は泊まっただろう。当時本給53,414円だったから、少しばかりの手当だが余録になった。

中古車

村では、昭和33年から岐阜乗合バスの定期運行が始まり、岐阜市へ出るのは従来の村営バスに比べて便利になっていた。それでも運行回数は1日3回と少なく、途中の根尾村樽見で乗り継ぎをするので、岐阜市まで片道約3時間かかった。往復時間がかかりすぎて、バスで日帰りするには岐阜市内でゆっくり用事をすます余裕はなかった。岐阜市へ出るには、問屋へ買い出しにむかう雑貨店の車に便乗を頼んだりしてもいたが、これも度々というのは気がひけた。

それで、中古の自動車を買わないかという話があった。土方仕事などの業務用は別として、まだ、村内に自家用車は少なかった。教員の給料では、車税、維持費などととてもむつかしいと本気で案じてくれる父兄もいたが、フサヱさんが工面して買うこととなった。はっきりした覚えはないが、紺色のブルーバードは14,5万円くらいだった。これで、運転免許をとってから1年、ぼくのペーパードライバー歴は終わった。

中古にしろ自動車は移動には便利で、土日の休日に家族で岐阜市などへ出るのにも活用して、わが家の生活リズムはかなり変った。ぼくは、岐阜市内での「岐阜文学」の会合などにもこれまでより自由に出かけられるようになった。時折、岐阜市からの帰りが深夜になる。ヘッドライトの明かりをたよりに急傾斜の暗い峠道を走るのは心細く緊張したが馴れていった。こうして行動の範囲は拡がったものの、その分だけ村の暮らしからはみ出し、生活がずれていくような感じがした。

村内の道路は簡易舗装がしてあるが、路面はわるく、そのせいもあり中古車はよく故障した。未熟な運転技術にもよるがマフラーが破れたり、ホイールキャップが外れて落ちるなど、今では考えられない故障がしばしばあった。修繕費も嵩んだが、それから数年間は買い求めたブルーバードを愛用した。今考えると下手な運転技術で一家で県外へ遠出もしたから、大きな事故がなかったのは運がよかったということだろう。

方言集

母の言葉を中心として集めた村の方言語彙集が活字化され、刊行できたのは、この年の暮れ近くだった。

昭和40年春に櫨原分校に勤めるようになったころから、ぼくは村の方言に関心をもちノートをとっていた。岐阜大学の永平和雄先生が地道に村の暮らしを調べるように励まし、刊行できるよう配慮してくれた。

村の人々は方言で暮らしている。ぼくは村で生まれ、村で育ち、方言については充分に知っているつもりだったが、日々暮らしているとそうでもないことに気づいた。同じ徳山村内でも集落によって、人によってその方言語彙はちがう。互いにつながりながらも、各集落ごとに人称からして異なるそれぞれの生活語をもっている。村には多くの人が住んできて、その生活語の総体は莫大なものだった。

昭和初年、ぼくが小学生のころに民俗学者の橋浦泰雄とか桜田勝徳という人たちが村に来て、若かったぼくの祖父などにも出会って、この村の暮らしとか言葉について調べている。たとえばユイという村の言葉は、方言が歴史的に変化していく例として取り上げられている。ぼくの村には相互に仕事の手伝いをするユイ慣行があるが、調べてみると、結(ユ)イ、結イスルという言葉は全国各地にある。橋浦泰雄は、家普請、屋根葺き替え、田植えの場合、金銭、物品などの代償によらないで協同互助的に労力を交換する慣行である、ユイという言葉の変遷について各地の例をあげて考察している(橋浦泰雄「民俗学問答」昭和31年版)。そんなことが分かってくると、村に帰って家族一緒に暮らして、使いつけている方言がにわかに深い意味をもってくるのだった。

ぼくは方言調査には全くの無学で、初めは初歩的な方言書を手当たり次第に読んだ。方言は自分の平素の言葉で、関心をもっていれば、やがて何か分かってくるだろう、というほどの考えであった。そのうちに、民俗とか方言の調査、研究をする人たちに人間的に豊かさをもっている人が多いことに気づいた。

手紙を出すと、先学者は、未知の読者に懇切な手紙をくれた。自分の郷里の言葉を調べるときには、もっともなれた土地のことであるからしぜんに「自然傍受法」となるが、その気安さに甘えてはならない。ともすると気安さに事柄を客観的に見る目がにぶる、と初学者にきびしさを教えてくれたのは藤原与一先生だった。永平先生の紹介で、言語学専門の奥村三雄先生からは、細かな字で親切な葉書をもらった。奥村先生には調査をまとめるまで何かと指導をうけた。先生は、まず、中学校の国語文法書の方言訳を薦められた。それが常道の第一歩という。しかし、ぼくが、長期にわたって基礎的(アカデミック)な方言研究など出来ない素人と見抜かれたのだろう、付属語より取り扱いが楽だから名詞から始めてもよい。動植物名、人間関係語彙などに分けて記録してはどうか。柳田流民俗学者は、この面から方言学へ入ったのです、と助言してくれた。ぼくは楽な方を選んだ。始めてみると基礎知識の全くないぼくには分からないことが多く、研究方法に選択の余地はなかった。それでも関心だけは持ち、ノートを続けた。それは祖父母や父母が生きた村を知りたいという思いが支えてくれた。

そのころ方言学者柴田武氏の、方言集の理想は「一個人の言語の記述に徹すべきだ」という文章を読んだ。方言は、「最小集落ごとに違っている。まったく同一の方言を持つ最小集落は二つとはない」という。これは、徳山村の各集落の方言分布の実地を調べて書いているかのような指摘だった。それは、ささやかに続けているノートがまとめられれば大きな意味がある、とぼくを励ましてくれた。母志ん(当時60歳)は、若いころの短期間の紡績出稼ぎの経験はあるが、漆原という小集落に生きてきた、またとない話者だった。母はよろこんで話相手となってくれて、そのまま取材となった。母の生活語を中心として、ぼく自身の内省を加えて方言集をまとめよう。時間をみつけてぼくはその仕事に没頭していった。

集落で暮らすには、相手とかその場に応じて共通語が使われたり、方言であったり、両方混ざり合ったりして言葉を使い分けている。日々の暮らしの中で母も同じだった。ぼくも同じ方言の話者であるから会話にこだわりはない。方言辞典の見出し語にあたる母の言葉を聞きながらノートしていけばいい。それは、自分自身の言葉をたしかめるようでもあった。見出し語にはあっても母の言葉、つまり集落にはそれにあたる言葉がないのもある。そんなとき母は困ったような顔をした。それは、風土、生活の違いから対応語のない言葉だったが、母はなんとか考えたいと首をかしげる。その思い詰めていくような表情がなつかしい。

語彙の整理分類は、東條操「分類方言辞典」によった。方言を集めたこの辞典は、言葉を概念的意味によって14の部門に分け、文法上の品詞別にはこだわらないで標準語の50音順に配列してある。これにしたがって、今は絶滅している習俗、生活語でも話者である母の記憶にあるものは採録することにつとめた。記録するための母との対話は、ぼくのたのしい時間だった。しかし、ぼくの語彙集作りは、方言辞典の見出し語にあたる村の言葉を整理するにとどまり、母の生活語を包括的に記述することはできなかった。母の暮らしの日々には標準見出し語にない生活語があるはずだが、その多くは、ぼくには分からない。母が山畑の仕事、父との炭焼き仕事のなかで身につけている、細かな、しかし大事な言葉は、ぼくの質問にはならないで抜けおちる。それについて柴田武先生から、体系的な記録としては、方言のきめの細かい観察、記述が欠けているというきびしい批判をいただいた。ぼくの整理方法では、方言の指す具体的な形状、様子が分からない、という。適切な指摘だったが、怠惰なぼくはその後これを生かす作業を続けることはできなかった。

話者となってくれた母は、ノートを取り始めて3年後、死去したが、母の生活語を中心とした、ぼくなりの語彙集は残った。村内の他集落の語彙も、友人らの協力を得て加えたノートをまとめて奥村先生に届けた。大学の国文科には方言専攻の学生もいて、出版するには横やりも入ったらしいが、ノートは、昭和44年12月、岐阜大学教育学部「郷土資料(1)」として刊行された。徳山村という地域の対象を小単位にしぼり、体系的に整理した方法は認められ、学問的な意味も小さくないと評価してもらえた。奥村先生が「総説」に、臨地調査のもつ意義、その限界についてふれながら「西美濃方言における語彙の性格が、かなりの程度、明らかにな」った、と書いてくださった。亡き母との共同の仕事が認められたようでうれしかった。

つづく

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