- 著者:大牧冨士夫さん
- 1928(昭和3)年、岐阜県の揖斐川上流、徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。戦争末期を新潟県村松の陸軍少年通信兵学校にすごす。戦後は、大学卒業後、岐阜市での業界紙記者づとめなどをへて、故郷の徳山村の小・中学校で教鞭をとる。かたわら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などにたずさわる。1985(昭和60)年、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。著書に、『郷土資料── 揖斐郡徳山村方言』、『たれか故郷をおもわざる』、『徳山ダム離村記』、『研究中野重治』、評論集『三頭立ての馬車』(共著)、『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などがある。
大牧冨士夫『ぼくは村の先生だった』の第一部『ぼくの家には、むささびが棲んでいた ーー徳山村の記録』、第二部『あのころ、ぼくは革命を信じていた――敗戦と高度成長のあいだ』発売中です。
過去の連載
1.教師、肺病、手術 2.病院、療養解除、復職3.分校、重複式学習
4.家族、人情、保育所
5.分校教師と親たち
6.豪雪、父の死
7.大型ダム再調査、方言集
8.墓石、古文書、村史
9.仕来り、月給取り、実測調査
第6回 豪雪、父の死
豪雪の冬
昭和44年冬は暖冬という長期天気予報だった。ところが、大晦日の前夜から降り始めた雪は、年を越しても止むことなく正月6日まで降り続いた。朝がきても日が暮れても降っている。暗い空に人々は底知れぬ怖じ気を覚えた。雪は、道を閉ざし、家を埋め、向かいの隣の家は僅かに屋根棟をのぞかせている。4メートル余はあったろう雪に埋め尽くされて、村は平常の姿を奪われ、人々はやっと住家を守り、ほしいままの自然の暴力と共存する生活を強いられる。
6日の午後、小止みとなった雪雲が裂けて陽が洩れてきた。除雪のスコップの手を休めて、これが太陽の光であったかとしばらく日差しをたのしんだ。穏やかな陽の光は軍手についている雪を溶かし、おもむろに掌に温もりを伝えていた。8日ぶりの感触だった。雪は、4月初めまで消えずに残った。
村内のどの集落でも冬季の日照時間はごく少ない。この分校の集落ではとくに短い。晴天の日を平均しても4〜5時間しかなかった。朝10時近く、ようやく射し始める太陽は、昼過ぎの2時ころには子どもたちが授業に熱中している教室の窓をかすめ、村を抱くように屹立する正面の山陰に沈んでいく。陽の陰りゆく谷間の村に拡がる心細さに、ぼくはいつまでも慣れなかった。陽の陰りゆく日脚が刻々に村をつつんでいくとき、ぼくはいつも落ち着かなかった。子どもたちは、彼らも共有している、この風景をどのように感じているのだろうか。この自然が村の子どもたちの心象にどのような影をなげかけたか。今、投げかけているか。教師としてそれを見きわめたい。もとよりそれは容易に分かることではないが、この問いかけを忘れてはなるまいと考えた。
しかしこの答えの出ないままにぼくは4月から本校勤務となった。
本校へ
冬季になるとフサヱさんも二人の幼児ともども分校住宅へ移って住んでいた。ぼくはそれでいいが、病弱の父を独り自家に残しての分校生活は、何かにつけて不都合であった。そのために本校勤務となるよう叔父など親戚からも促されて希望は出していたが、学校長から人事について好意的な返事はなかった。そのころ、経験のある中堅教師を1号俸ベースアップして僻地へ異動させる県教育委員会の方針もあり、新卒教師も配属されてきた。しかし本校へ赴任してきた中堅教師らも、生活条件の整わない分校へは行きたがらない。そんな校内人事のなかで分校から本校への勤務替えは難しかったが、ぼくは本校へ異動することとなった。
しかし、この本校異動にあたって、ぼくには全く不可解な裏事情が分かってきた。皮肉にもその動きが、ぼくの異動の幾分かを後押ししたようだ。なにごともなく4年間毎日顔を合わせていた給食婦さんが中心になり、ぼくを異動させねば自分が辞める、という父兄の署名を集めていたのだ。村の教育委員会へ出された父兄の要望書には、本校並の教育活動をしようとするので、父兄の負担が多すぎる、子どもへの指導態度がきびし過ぎるなどという理由が書かれていたそうだ。その連名の要望書は、父兄のひとりである昔の小学校の級友が、異動希望は自分の本意ではないと知らせてくれて分かった。3学期中、ぼくは教師として「裸の王様」だったというわけだ。
後で分かったのだが、給食婦はしばしば学校長に不満の意を伝えていたようだった。本校勤務となってから、学校長は、教師が校下で人気をたもつコツは、学校の給食婦、小使いさんと仲良くなることだ、と自嘲のような口振りで話してくれた。ぼくは給食婦の仕事には、一定の献立表を守ってほしいことなどを直言した。それが給食婦の仕事を尊重することと考えていたが、地元の人同士としてのつき合いは下手で融通の利かない教師だった。フサヱさんも、そのころのぼくは自己本位できびしかったというから、年長の給食婦には横着に映ったのだろう。
分校勤務が決まったとき、村の教育長に、腰にトンカチをさすくらいの気持ちで赴任してくれと言われた。言われるまでもなく、分校には雑用が多く、トンカチ、ペンチ、釘、針金などは手放せなかった。簡易水道が詰まれば、取り入れ口まで出かけてホースの具合を直し、水洗場の水栓交換もする。巡回図書館が来れば自動車文庫一覧表を作って集落中に配る。分校にある電話が集落唯一の電話なので、電話の呼び出し、取り次ぎもする。風邪薬がないかと分校備え付けの薬を当然のように取りに来る人もいた。それらの対応はすべて教師の仕事である。
昭和37年4月、本校では完全給食となり、村内の他の4分校では相次いで給食が始まっていた。櫨原分校でも遅れていた給食が昭和40年秋から始められた。準備給食の揚げパンから始められて蒸しパンとなり、やっと小型ながら電気パン焼き器が入ったが、これも給食婦に任せておけない。パン焼き器がきてもブレーカー設備がない。試運転のときには、校内の蛍光灯、冷蔵庫のすべての電源をきり、ストーブの送風だけ残して大騒ぎした。パンはどうにか焼き上がった。その日の日記には、「今日は、給食婦さんも機嫌がよかった」と記してある。ふだんの彼女は機嫌がよくなかったが、ぼくは取り合わなかった。
また給食婦が要望書提出に動いた裏にはもっと根っこに不満があっただろう。彼女は、村役場の非正規の傭人の不安定な低賃金であり、教育公務員は給与が保証されていた。同じ村人であり、日々同じように子どもと接していながらその格差は大きい。恵まれていないという思いのはけ口は目前の教師に向けられる。要望書が提出されたと知ったとき、年長の前任教師が言った引継のときの言葉をぼくは思い出した。彼女は、「分校で、いくらやっても同じですよ。ほどほどにしなさい」とはなむけの言葉をくれた。それは結核病み上がりの「療養要注意」期間中の若い教師へのいたわりであったろう。彼女は転勤先から、教職員組合の御用組合化する内実を嘆く手紙をくれる人だったが、ぼくには返す言葉はなかった。教師が「ほどほど」に日々をおくるのは上手な処世の手であろう。そのしわ寄せは児童にいくしかないと知ってそれは受け入れられない。いずれにせよ分校教師として落第点を付けられてぼくは本校へ戻った。
「裸の王様」の自分を見せつけられることは、それからもあった。個人的な中傷、教師を辞めさせよという声が、父兄の意見として学校に寄せられる。全く思い当たらないことで、誰かに仕組まれていると察せられて、ぼくは息苦しかった。そんな声は古い親類からも出てくる。日ごろ顔を合わせることもある村人同士、まして親類ならば直接に言ってくれればと考えるが、それがない。ぼくが口惜しかったのは、そういう中傷が、村外から赴任してきた学校長から実名を名指して、彼女は親類でないのか、この村の親類の縁は、陰口されるほどうすいものか、と指摘されたことだった。身内になんのいさかいがあるのでもない。日ごろ穏やかに顔を合わせている身内から陰で中傷されるのは辛かった。古い親類は、ぼくにとっては故郷と同意語だった。ぼくに好意的でなかった学校長は、ぼくが傷つくのを承知で話したのだった。他村出身の彼に、親類からこんな声があったと言われるのは、故郷が侮辱されたようで残念だった。
暮らしのなかで、嫉み、そねみの中傷、陰口は小さな村にいっぱいあった。それが、ぼくを育ててくれた村、ありのままの村と村人のもうひとつの姿だった。
父の死
昭和43年6月に次女治子が生まれた。治子は、生後なかなか歩かなかった。1歳半ばで歩き出すまで、体に異常があるのではないかと疑うほどだった。成人した彼女は歩けなかったのでなく歩かなかったのだと、今は冗談めかして言いはるが、本当に心配させられた。その治子を可愛がっていた父が、冬に入り、病んで床につくようになった。フサヱさんが分校住宅を引き揚げて自家に帰り看取ったが、体力が弱り不自由になった父を、彼女は親身になって世話した。
本人には知らせなかったが、父は、昭和41年10月に入院して胃の一部摘出手術をしたときからガンを病んでいた。それから家中がおどろくほど回復して山仕事までするようになっていた。それが3年目の再発だった。立ち居も思うに任せぬようになった父を、フサヱさんが、実子であるぼくも及ばない行き届いた看病をしたが、死はあっけなくやってきて逝ってしまった。
村の三昧(墓場)は、杉林に隠されるようにあった。母の墓の傍らに墓穴を掘ると、2年前に埋葬した母の棺の角がまだ朽ちないで見えた。母の棺に並べるようにして父の棺も埋めた。そのころ、棺、供花は村の人たちの心のこもった手作りだった。棺は、金、銀、赤、青の色紙で飾られ、供花の蓮の花、飾り灯籠も切り紙細工であざやかに作られていた。
葬式の日は自家で読経の間雨が降っていたが、出棺のときには雨はやみ、薄陽が射していた。
葬式のあわただしさが終わって、父のいない部屋に坐ってみると、今更ながら父へ我がままにふるまった自分の至らなさが思われてならなかった。父は若いときから酒が好きで母を困らせたようだったが、ぼくは父と酒を酌み交わした覚えがないのが無性にさみしかった。父は山の村で生きる術を知っていた。栃の巨木を切り倒して、栃板に挽くことができた、炭を焼く窯の作り方、炭に焼く雑木の伐りかた、たくみな集材のやり方を知っていた。鮎の友釣りも上手だった。その村の暮らしに安心していた。しかしその安心感は、過疎化していく村で、年老いて病みおびやかされていた。父が知っている村と現実は一致しなくなっていく。父が生きた時間と空間の大きなひろがり、その変貌を語りあわないうちに父は死んでしまった。
ぼくは子どものころから父に殴られた覚えがない。勝手な振る舞いがあり、殴られて当然な思い出が幾つかあるが、父に手を挙げられたことはない。殴られた覚えはないが、父がある男を殴った話は聞いた。
それは戦後間もなく、父が炭焼きをしていたころの話だった。集落には何人か炭焼きがいて、彼らは、ある親方の焼き子として働いていたが、父はその仲間に入れなかった。父は自分で炭焼く山を見つけて、苦労して自前で炭を焼いていたが、ある年、その仲間に加えてもらおうとした。仲介する人があり、その人の家でことは起きた。話がもつれて父はその親方を殴った。何度も殴ったらしい。母に諫められて父は翌日その親方に謝って、殴ったことは内分で済んだが、炭焼き仲間には入れてもらえなかった。
父がこの話をしてくれたとき、親方の不当さを責め、その無念さを語るのでなく、その場にいた仲介の人の態度について話していた。仲介人は殴り合いの仲裁はしないで、どちらの側にも立たないで父の殴るに任せてただ傍観していたという。父は、突出事にも動じないで目前の争いに介入しないその人の態度につよい印象を覚えたと話していた。仲介人は、土建の請負などをして村で仕事ぶりを認められていたが、地元の出ではない余所人(よそびと)だった。彼は、余所人として地元のもめ事には立ち入ることとなる立場を避けたのだろう。父は、この村での世渡りの機微について、ぼくに話そうとしたのかも知れないが、ぼくは何も学ばなかった。
父は68歳だった。母を愛して、我がままな息子を育てて逝ってしまった。
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