- 著者:大牧冨士夫さん
- 1928(昭和3)年、岐阜県の揖斐川上流、徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。戦争末期を新潟県村松の陸軍少年通信兵学校にすごす。戦後は、大学卒業後、岐阜市での業界紙記者づとめなどをへて、故郷の徳山村の小・中学校で教鞭をとる。かたわら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などにたずさわる。1985(昭和60)年、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。著書に、『郷土資料── 揖斐郡徳山村方言』、『たれか故郷をおもわざる』、『徳山ダム離村記』、『研究中野重治』、評論集『三頭立ての馬車』(共著)、『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などがある。
大牧冨士夫『ぼくは村の先生だった』の第一部『ぼくの家には、むささびが棲んでいた ーー徳山村の記録』発売中です。
第5回 分校教師と親たち
子どもの目
分校には2学級ある。重複式学習では1〜3年までを低学年、4〜6年を高学年と分けて2人の教師が分担している。ぼくは分校で4年間、低高いずれの担任もして勤め、1年生から6年生までの児童を受けもったことは、小学校教師として幸せだった。後に本校に戻って高学年を受けもち、また、中学校に転勤したので、同じ村内の子どもたちが、その学年に応じて成長していくのがぼくなりに理解できた。
こどもたちはひとりひとりがそれぞれに成長しており、異なった発達段階の子どもたちが、ひとつの学級をつくっている。分校の学級では、学年の差もあり、少人数なので子どもたちの個人差が際立ち、新米教師のぼくにはその扱いは易しくなかった。
ある年の学習発表会を思い出す。分校では子どもたちばかりでなく父兄の関心も大きかった。唱歌と劇で3時間ほどかける。20人ほどの児童は出ずっぱりである。この長時間、子どもたちをたのしませながら過ごすのはかなり難しかった。幕間に、若い母親たちも飛び入りで出演して、ひょっとこ面をつけての踊りで、日ごろ見られない思いがけない一面を見せてくれた。
この学習発表会の劇の配役で困った。誰もを主役にあてたい。学級内の学習遅進児はクラスの子ども達自身がよく知っている。おっとりしたその子にどう活動してもらうかが課題となる。ぼくはその子にかなり見せ場のある役をあてた。それは本人にも思いがけないことのようだったが、よくぼくの希望に応えて、劇の発表はなかなかの出来栄えだった。劇は無事に終わった。
ぼくがうれしかったのはその子の父親が観に来てくれ、喜んでくれたことだった。冬場で土方仕事はなかったがわざわざ出かけてくれた。発表会には、母親は来てくれるが、父親はなかなか顔を見せない。子どもが学習遅進児であるのは親もよく知っている。それだけに、劇の内容を知り、わが子の活躍ぶりをたしかめに父親が参観してくれたのだった。
この思い切った配役は、父兄の間で話題ともなったと後に聞いた。子どもの目は日々教師を見つめているが、児童一人ひとりに日々かたよりなく応対することは容易でない。発表会が終わって、ぼくは学習遅進児への思い入れが過ぎたのでないかと反省をした。
分校教師と親たち
分校教師の日々は多分に親たちに依存する。分校校舎は公立学校であるからその保全は村役場の役目である。しかし、その実質的な仕事は、児童の親たちの肩に転嫁され、かなりの負担をかける。たとえば冬季の屋根雪下ろしは父兄に頼むほかない。山手の高台にある2階建て分校校舎の屋根は高い。ときには一晩に2メートル余も積もる雪下ろしは、雪に慣れた大人にもむつかしく、屋根に上ると足がすくむ。
教室で使うストーブは学校の備品だが、薪は父兄から何束と集めて使う。乾燥した、火力のある薪が多いが、まったくの生木の束も集まってくる。使い物にならない生木を持参したのがどの子どもの父兄かはすぐ分かるが、どうこう言う訳にはいかない。
ストーブが灯油式に変わると、その代金は村から支出されるが、校舎のところまで車は入って来られない。200キロ入りドラム缶を二人がかりで担って、100メートルほどの坂道を何本も運ぶのも父兄に頼らねばならなかった。職員住宅へも運んでもらう。父兄は、「先生のだから」と快く運んでくれる。便所のくみ取りも、校舎、職員住宅ともに父兄に頼む。これも心苦しい。ある年の同僚教師の森さんは、このくみ取りを自分でやっていたが、ぼくには出来なかった。村に住む教師としてぼくは失格であった。
くみ取りは村の匂いがする。「肥(こえ)持ち」とよばれつらい仕事だった。なぜか集落によってその家の男性がするとか女性がするとか慣習の違いがあった。ぼくの集落ではそれは女の仕事だった。母が亡くなってからフサヱさんは、村の女としてそれをやり抜いた。「下肥(しもごえ)」は、畑作物に欠くことの出来ない肥料として自家の畠に運ばれた。どの家にも肥桶と天秤棒があった。畠の畝間に施される有機物は村のありきたりの風景だった。
建国記念の日
重複式学級では、学年差のある子どもがひとつの学級で幅広い学習ができる。そこに学級経営の妙味があるともいうが、1年生と3年生では学習経験にかなりの差がありおのずからひとつの集団としての学習には限界がある。上学年が下学年の世話をするというのも、一面では、利点のようだが、それは一方で下学年ののびのびとした学習を妨げる。重複式学級の短所はいくらでもある。しかし与えられた場で子どもは学び、教師は教える。
昭和42年2月11日は、祭日として定められて初めての「建国記念の日」であった。ぼくは分校教師として復職して、初めての低学年を受けもっていた。この日の意義を低学年の児童にも分かりやすく伝えたかった。
「建国記念の日」を2月11日と定めるのは賛否両論があった。
戦前、政府は、この日を「紀元節」として天皇を神格化し、その政治を美化して国民に皇国史観と軍国主義を押しつける祭日としてきた。2月11日は、神武天皇が即位した日本の国づくりの始まりの日と教えられ、ぼくらの世代は小学校などで「紀元節」の歌を歌った。メロデーは今も覚えがあるが、それは子どもだった日々へのなつかしさで、昔の紀元節がなつかしいのではない。
この日を「建国記念の日」と定めたのは、暦法上からもまやかしであることも知らなかった。神武天皇が実在しない人物であることは歴史学の常識であり、何よりも主権在民を定める日本国憲法の民主主義の原則に反している。明治政府がこの日を「紀元節」と決めたのは科学的に根拠のあるものでなく、2月11日を伝統的な祭日とすることはできない。その日を「建国記念の日」と決める意見にはきわめて感情的な論議が多かった。
国にも建国の日があって当然という考えはうけいれられやすいが、制定を急いだことは、反対意見を表面化させた。強引な制定は、その後の元号法制化、「日の丸」「君が代」の教育現場への押しつけなど、教育の反動化、憲法改悪の動きにむすびついた。
記念日を決めるにつよい反対意見のあった経過から、政府の公式行事はなかった。神社庁、日本郷友連盟は奉祝行事を行ったが、革新系諸団体は、建国の日の制定は紀元節の復活につながるとして抗議行動をした。
この日が土曜日だったから、大手企業は、新設の祝日を休日にして連休としたが、零細中小企業にとっては、絵に描いたモチだった。徳山小学校では休日とするたしかな連絡があったかどうか覚えがない。本校の教師は連休を利用して帰省した。ぼくは授業をした。
その日の日記を読み返してみる。「曇りがち、東京は大雪という。今日は建国記念の日。朝からテレビで賛否のニュースをやっている。今日は授業をすることとして早く出かける。週番がきてストーブをたいてくれる」…ぼくはこのように書き出してその日の授業を記録している。たどたどしい授業のながれをたどってみる。無理して「建国記念の日」が決められたというイメージをどう子どもたちに伝えられるか。低学年は1年生2名、2年生5名、3年生4名のクラスだった。
授業のながれ
「今日はどんな日ですか」とまず問いかけた。3年生の千里が「今日はさいじつです」と答えた。
▼(教師) 祭日というのは何ですか。
▽(千里) 分かりません。
▼ 誰が祭日と教えてくれましたか。
▽ おとうさんです。今日は祭日なのに「学校に来い」というのはおかしいって言いました。
もっともである。千里の父親は社会党支持者だったことを思いだしたが、授業と関係ない。「けんこくきねんの日」と板書して、カレンダーを持ち出してゆっくりめくって見せる。
▼ 赤い字で印刷してあるのは何曜日ですか。
▽ 日曜日。
▼ 赤いマルがついている日はなぜだろうか。
▽ みんな無言。
▼ 赤マルは祭日だね。5月は沢山あるね、10月もあるね、とカレンダーをめくる。だけど今日は、祭日なのに赤マルがついていない。どうしてだろう? (なんとか答えを引き出したいと試みるが子どもたちは無言。)
このカレンダーを作ったときには今日、2月11日が祭日とは決まっていなかった。だから赤マルはついていない、と説明する。けげんな顔していた子どもたちが、やっと、そうなんだと納得した顔つきとなる。
「建国記念の日」というのはなかなか決まらなかった。沢山の人が2月11日ではおかしい、と主張したが、政府は無理して今日に決めてしまった。『日本書紀』という古い本がある。その本に日本の国ができたと書いてあるが、それは神話の世界である。その本が書かれたずっと前から日本列島には人が住んでいた。まだまだ分からないことが沢山ある。それなのに、2月11日が「建国記念の日」と決めてしまったのはおかしい。
もっと話したようにも思う。戦前、ぼくが子どものころは、2月11日は「紀元節」の建国の祭日であった。神話の世界が事実であるかのように教えられたが、それはまったくの嘘っぱちだった。その反省から歴史の事実を知ることの大切さなどを話した。
日記によるとこんな話をしてぼくはその日の授業に入った。
その日の午後、連れあいのフサヱさんにスキーをはかせて歩く練習をさせた。来年はどのように2月11日を迎えるか、明日からの授業がそれを決める、と書いて日記は終わっている。深い大雪の年だった。
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