コラム「僕は村の先生だった」

著者:大牧冨士夫さん
1928(昭和3)年、岐阜県の揖斐川上流、徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。戦争末期を新潟県村松の陸軍少年通信兵学校にすごす。戦後は、大学卒業後、岐阜市での業界紙記者づとめなどをへて、故郷の徳山村の小・中学校で教鞭をとる。かたわら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などにたずさわる。1985(昭和60)年、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。著書に、『郷土資料── 揖斐郡徳山村方言』、『たれか故郷をおもわざる』、『徳山ダム離村記』、『研究中野重治』、評論集『三頭立ての馬車』(共著)、『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などがある。

大牧冨士夫『ぼくは村の先生だった』の第一部『ぼくの家には、むささびが棲んでいた ーー徳山村の記録』発売中です。


第4回 家族、人情、保育所

父の家

昭和38年4月、ぼくたちは村に帰って父母と同居した。7月には長女が生まれて5人家族となり、過疎化しつつあったこの集落では大家族となった。

昭和5年に父が建てた家は、板葺き、切妻造りの中2階建てだった。8畳四間を方形にくっつけて半間の縁側、奥座敷を仏間とする真宗の布教地であるこの地方に多くみられる間取りで、一間幅の土間がついて平側に出入り口がついていた。

大正時代までに建てられた徳山村の家屋は、四間取りの座敷に加え、8畳二間にあまる広い土間がついていた。かつて土間は紙漉、積雪時の藁細工、脱穀などの作業場であり、牛部屋があった。昭和5年には村の生活様式も変化していたので、父の家には大きな土間は作らなかった。父は分家だった。分家には、奥行き、間口も本家より大きくしない仕来りがあった。分家は、方形四間取りで、間口4間半(8畳二間に半間の縁側)奥行き5間(8畳二間に1間の土間)、本家は、間口5間に奥行き6間半とすることが慣例となっていた。

もとより家を建てるには専門の大工の手を借りねばならない。父の家は、戸入集落の中沢清数さんという大工が図面を引いて、その指図によった。しかし、材料は、鴨居、棟木から大黒柱、一本一本の柱まで、父の息がかかっていた。父一人で出来ることではないので、親戚、村人の手を借りたのだが、これらの材料は、どの山の、どの谷間から、どのようにして伐り出したかという覚えのあるものばかりだった。

父は、昭和4年8月23日、普請仕事初めの日からほぼ7か月かけて家を建てた記録を雑ノートに書き残している。若いころから木挽きをしたり、炭焼きを生業としたが、手先が器用で小まめに立ち働くことが好きだった。鑿(のみ)、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)などの大工道具もかなり揃えていて、家の中の小さな造作仕事には父の手の跡が多く残っていた。父は戦後ほどなく井戸も掘った。深い井戸は、親戚の手伝いもあったがほとんど自力で掘った。この井戸掘りに父は難儀したが、良質の水脈を掘り当てて、渇水時にも涸れない旨い水だった。

生活用水はこの井戸水と簡易水道設備と、集落共用の用水路があったが、これだけでは足りない。父は、300メートルほど離れた山手の谷間水をビニールホースで引いて自家用に使っていた。谷水は緋鯉のいた池に入れ、冬場は撒水して積雪を溶かすのに実に役立った。

もともと揖斐川段丘にあるこの集落は、水には不自由していた。明治末期にかなり離れた谷間から集落共用の用水路を作って水を引いていた。これは各戸の飲料水としても使ったので、雑用水を流さないようにきびしい約束ごとがあった。そのころ約束ごとはゆるやかになっていたが、用水路で幼児のおむつを洗うのはとくに許されなかった。フサヱさんは、長女育子のおむつを洗うのに、寒い冬も深い雪を踏み分けて、5分ほど歩き村下の揖斐川端まで出かけた。そのようにして出かけていたのは、フサヱさん一人ではなかった。近所に同じように乳飲み子を抱えた同年輩の嫁がいて、二人は早朝の川水でおむつを洗った。彼女は荘川ダム建設で追われた家族と別れて嫁いできた。なつかしい村の話をしたという。主な洗濯は、手回し脱水ハンドル付きの電気洗濯機があった。

8畳四間のうち囲炉裏のある居間にテレビがあった。四本脚付き東芝の16インチ白黒テレビ受像機が生活の中心となった。昭和38年7月25日昼から、中部電力株式会社の電気導入により、初めて村に送電された。それまでの自家発電設備による電力では、テレビ受像も洗濯機も使用できなかったが、街灯も格段の明るさで、夜の闇の暗さは失われた。送電開始にともない、集落で共同受信施設が作られて、わが家では10月30日夜から受像できた。父はテレビ鑑賞がめずらしく、夜遅くまでたのしんで毎晩観ているので疲れると日記に書いている。父は相撲、時代劇を好み、大河ドラマ「花の生涯」は欠かさず観た。

炉の座にはきまりがあって、正面奧をヨコザと言って家長の父が座り、その左がナベザで母が坐る。ヨコザの右がヨリツキジロでぼくの座、ヨコザの正面がシモザで嫁のフサヱさんの座と決まっていた。この仕来りもテレビが入ってから、テレビの見やすい場所が中心となったので、くずれていった。ナベザは主婦の座であるが、フサヱさんは母の意向で村に来た次の日からお勝手を任せられたので、シモザに坐っていそがしく立ち働いた。

任せられたといっても、飯の炊き方ひとつからしてむつかしい。ぼくは胃腸が弱かったが、かたい飯が好きだった。父は永年の胃弱で飯がかたいと、これは半煮えだと文句をつける。母はよく噛めばいいと父からかばってくれるが、これは、かたい飯が好きだったぼくをかばってくれたので、フサヱさんをかばったのではない。5人家族の嫁の座はなかなかきびしかった。

戦後、多くの家庭では、従来の囲炉裏で薪を使った煮炊きからカマドを使うように変わっていた。父母もカマドで主な煮炊きをしていた。フサヱさんもこれを引き継いだが、間もなくプロパンガスが普及して薪と代わり、米飯は電気釜で炊くようになった。

風呂場では薪に代わってオガライトが使われるようになった。おが屑を棒状に圧縮成型したオガライトは、薪よりも火力が強かったので、3本あると風呂が沸いて重宝した。ぼくが子どものころは各戸の軒に木棚があり、割る木(薪)や柴が積まれていたが、木棚のある家が少なくなっていた。ぼくの家でも何時の間にか木棚はなくなっていた。山村であるが、山仕事を主とする生業がすたれ、災害復旧の土木工事について現金収入のある家々では、手近に使えるプロパンガス、オガライトを使うようになっていた。

かつての囲炉裏は掘こたつに改良されていた。

当初、わが家では、掘こたつには木炭を使っていた。木炭は、炭焼きをしていた父が屑炭を蓄えていてふんだんに使えたが、これもほどなく灯油ストーブに変わり、囲炉裏は全く使われなくなり、囲炉裏のあった部屋そのものを改造した。カマドは取り払い、これまで土間だったお勝手場を板敷きにしたりして、父の建てた家は年月とともに次第に変わっていた。 屋根の葺き替えもした。

父が家を建てるころ、集落の家はみな茅葺きで、瓦屋根はまだ一軒もなかった。父は 柞(ほうそ)の木を割った板で葺いた。新しく家を建てるなら、板葺きにしようという意気込みが父にはあったのだろう。板葺きの家は村でもめずらしかった。板葺きにした理由は分からないが、 柞と総称していた櫟(くぬぎ)、楢(なら)などの堅い木質の榑(くれ)材の板葺き屋根は耐久性があり永持ちする 柞を、長さ約30×幅15×厚み2センチメートルに割ってつくる榑材は、手間がかかった。

昭和36、7年ころ、集落では、屋根葺きをする茅が集めにくくなっていた事情もあり、茅葺きの家では雨漏りがして、次々と瓦葺きに替わっていた。わが家でも、板で屋根葺きしてから37年余となり、それまで補修はしてきたが、そろそろ葺き替えしようと、家中で相談して瓦葺きとすることとした。もちろん葺き替えの手間は村人に頼んでのゆい(結い)だった。

昭和42年5月、その手はずを整えた当日に、思わぬ手伝い人が何人も本郷集落からやってきた。昭和29年の本郷集落の大火のときに焼け出された何軒かの人たちが、1か月近くもわが家に仮住まいをしたことがあった。そのときの恩義を心にもっていた人たちが、父の家でが屋根普請をするならと、人伝てに聞いて出かけてくれたのだった。ゆい(結い)というのは相互労働の提供のことで、同一集落では当たり前とされていたが、このように他集落から思いもかけず出かけてくれた人情のあつさに、父はとても喜んだ。思わぬ手伝い人が増えて、昼飯のもてなしにフサヱさんはあわてたらしい。

葺き替え瓦の費用は、瓦代4万2千600円、釘、運搬費など諸費用を入れると6万2千245円だった。当時のぼくの1か月の本給分では2万円ほど足りなかった。集落の手伝い人は13人、昼飯の準備に4人もの手間をかけたが、ぼくは修学旅行と重なって不在だった。もちろん当日手伝えたとしても、屋根の上の仕事にぼくは役に立たなかっただろう。

5月末の普請のころ、母は病んでいた。それまでも病がちで、孫育子の子守りに専念して畑仕事に出ることもなかったが、屋根普請が終わるのを待っていたかのように、昭和42年7月18日死去した。63歳だった。ぼくはその前夜に分校PTAの集まりがあって遅くなり、母の病状は気がかりだったが、分校宿舎に泊まった。病床の母とは、前日の朝、「学校へ行くよ」と告げたのが最後となった。人はゆくりなく逝くものとは承知しているつもりだったが、母の死がこれほど心に衝撃をあたえるものとは知らなかった。野辺送りをして、家に帰るととめどなく涙が流れ、声を忍んで泣いた。母の死はぼくにもフサヱさんにも不意のことだった。

母は病身だったが、裁縫仕事も藁細工もとても手際よく上手だった。母が作ってくれる藁草履は他の子どもと比べて一目で分かるほど際立って丁寧で、ぼくは誇らしかった覚えがあるが、なにごとにもとても几帳面だった。子どものころ、家では毎食箱膳を使っていた。正坐して食事が済むと、食べ終えた茶碗を茶でゆすいで箱膳に収めて、「いただきました」という躾をうけた。母はそうした躾を祖母からうけたのだろう。

父も何事も手抜きはしない性格だったが、よく小言を言われていた。五人暮らしとなった日常には、母の思い通りにはならないことがままある。些細なことである。昼のおかずに軒の畑から大根を一本抜いてくるようにフサヱさんに言いつける。彼女にはどの畝から抜くのか、大根は、太めがいいか細めがいいか見当がつかない。抜いて帰る大根は母の思ったものではない。母には畑の一本一本の大根の成長の度合いが分かっているから目星をつけた大根があるが、畑に慣れないフサヱさんに分かるはずがない。母ははがゆかっただろう。家内のぎくしゃくする雰囲気を救ったのは、母の思いきりよく、永くこだわらない気性と、初孫が生まれたことだった。母が初孫育子に向かうと、肩の力を抜いてなごやかな気持ちになっているのがよく分かり、それは家中を和ませた。思いに任せぬとき母は、孫の守りに専心して病む日々を慰めた。

村の保育所

徳山村の保育所は、漆原集落の春日神社の拝殿を改造して、昭和37年4月に開所した。土建の日雇い仕事が増え、働きに出る若い母親の昼間の幼児保育の要望がつよくなったからだった。夏場だけの季節保育所だった。フサヱさんは、昭和39年5月から保母として勤めるようになった。出産する前任者の後を引き継いで、次女治子の生まれるまで4年間勤めた。フサヱさんの5月分初任給は9千500円。母が育子の子守りをしていたのでフサヱさんは給料を折半しようとしたが、母は3千500円だけ受け取った。母にしてみたら、父と暮らすようになって初めて自分の自由になるカネだったらしく、小学生だった姪などに気前よく小遣いをやったようだ。

初めての年、保育児は6歳の男子8名、女子9名だった。2年目からは二年保育となり、5歳児、6歳児合わせて40人近くとなった。オルガン1台きりで保育設備らしいもののない毎日で、彼女は声をからし、喉に湿布をして務めていた。 保育所は、朝8時30分から午後4時まで、給食も小学校の給食室から配食された。手伝いの小母さんと二人でてんてこ舞いだった。秋に行われる恒例の小・中学校の運動会には保育児が出場して遊戯を披露し、人気の出し物となった。夏休みには、運動会向けの遊戯の講習会が岐阜市などで行われ、フサヱさんも講習を受けに出かけたりした。

彼女は、定時制高校に通いながら苦労して取得した保母資格が認められ、日々あどけない子どもたちにふれて生き生きとしていた。ぼくはまだ結核手術後で、入院して療養中だったが、5人家族のわが家の暮らしはゆっくりと動いていた。

ぼくが家に帰ってから、父もやがて炭焼き仕事は止めた。山畑には出かけたが、胃弱の体をいたわりながらの日々だった。

そんなころ、集落の中からさまざまな声が聞こえてきた。フサヱさんの保育所勤めは村役場から保母資格の保有者として依頼があった。そうして勤め始めたのだったが、保育所勤めの希望者は他にもいた。子どもと遊んで給料がもらえればいいと安易に考えた人が、集落の有力者の親戚にもいた。顔見知りの彼らがあくどい陰口もながしたことを後に知って索然たる思いをした。へき村では、村役場、郵便局などの公務員は安定した職場であったから、その職につくために縁故関係をたより、排他的な利己心がまるだしとなる。そんな噂話があっけらかんとして語られる。穏やかな日々を営むかにみえる村人の素顔がそこにあった。

昭和39年度の岐阜県下の市町村別の一人当たりの生産所得は、県民一人平均18万5千円、徳山村は年6万6千円、県下で最低のランクと発表されていた。

モダンな校舎完成

昭和40年9月の集中豪雨は、村内に大きな傷痕を残し、1年たっても道路復旧は遅れていた。そのなかで倒壊した小学校の本校舎が新築完成した。建坪398坪、鉄筋コンクリートの3階建てで、普通教室6、特別教室4つあるモダンな校舎は山中の小さな村では珍しい建物で、ちぐはくな感じがした。総工費は3千万円余だった。この請負額は、大手企業にすればそれほど多額な工事ではなかろうが、間組、鹿島建設などの国内大手の土建業者が先を争うように乗り込んできたことが、話題となった。村内では、「これはダム建設工事への顔つなぎじゃ。それでなくて何で大きな業者がくるものか」と言われた。村内には数年来、全村水没という大型のダム建設の噂があった。にもかかわらず水没近い村に僅々3千万余とはいえ、鉄筋の校舎が建てられるのはどう説明したらいいか。ダム建設の先行きを見越して大手業者が動いたに他ならないといわれた。

つづく

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