コラム「僕は村の先生だった」

著者:大牧冨士夫さん
1928(昭和3)年、岐阜県の揖斐川上流、徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。戦争末期を新潟県村松の陸軍少年通信兵学校にすごす。戦後は、大学卒業後、岐阜市での業界紙記者づとめなどをへて、故郷の徳山村の小・中学校で教鞭をとる。かたわら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などにたずさわる。1985(昭和60)年、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。著書に、『郷土資料── 揖斐郡徳山村方言』、『たれか故郷をおもわざる』、『徳山ダム離村記』、『研究中野重治』、評論集『三頭立ての馬車』(共著)、『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などがある。

大牧冨士夫『ぼくは村の先生だった』の第一部『ぼくの家には、むささびが棲んでいた ーー徳山村の記録』発売中です。


第3回 分校、重複式学習

櫨原分校

1965(昭和40)年4月、結核療養が解除となり、ぼくが復職した職場は櫨原(はぜはら)分校だった。徳山小学校の5つの分校の一つで、ぼくの家から揖斐川に沿って5キロメートルほど奧に入った上流の櫨原集落にあった。

櫨原集落は、福井県旧西谷村に通ずる、越前境の美濃峠から流れる扇谷と、揖斐川本流とが合流したところにある段丘に形成された、古い集落だった。かつては美濃峠を越えての越前との交流も盛んだったが、民俗学者橋浦泰雄が大正14年に初めて徳山村に入ったころは、すでにすたれて美濃峠道は廃道に近かった。昭和初期までは、歯の治療に旧西谷村まで通ったものだという話も、すでに昔語りとなっていた。

ぼくが国民学校高等科のころは、分校にあったのは初等科のみで、高等科生になると徳山村内の8つの集落の子どもたちは、みな本校に通学した。そのころは、同じ複式教室で学んだ櫨原の友人もいた。しかし、徳山村内でも集落間の日常の交流がさかんになったのは戦後のことで、分校赴任が決まったときは、なじみのない土地へ行くという気持ちがあった。徳山小学校の分校をもつ集落は、この揖斐川奥地に点在し、どれもがそれぞれ俚言まで異なっている。それだけに櫨 原での4年間は新しい発見もあり、ぼくにゆたかな体験をもたらしてくれた。

櫨原分校舎は、瓦葺き木造の本格的な二階建てで、普通教室が5つもあって、茅葺きの村の家々を見下ろすように集落上手の台地にあった。後に知るのであるが、この校舎は、昭和24年、集落がひとつになって協力して建てた自前の校舎だった。二階建て校舎の太い棟木も、集落奧の谷から自分たちの手で苦労して伐り出したものだという話をしばしば聞いた。その誇りと愛着を語る人々は多く、てらいのない素朴な言葉はさわやかな心を伝えて、後々なれない分校生活にくじけそうになるぼくを励ましてくれた。それほど広くない運動場からやや離れて、右手の大きな柿の木の下に教員住宅もあった。こぢんまりした平屋建てだったが、日々の起居には十分だった。

児童数は年々少なくなっていて、この年は、1年生から6年生まで合わせて女子17人、男子16人。ぜんぶで33人の児童が低学年と高学年の2教室に分かれ、二人の教師が受けもつ重複式の授業だった。

重複式学級

ぼくは低学年を受けもった。1年生5人、2年生4人、3年生2人がひとつの教室に机を並べて、それぞれの教科書をひろげる学級はなかなかいそがしかった。子どもたちは、かわいかった。便所は男女、教師、児童共用だった。着任間もないある日、小便していたら寄ってきた1年生の女子に「先生も小便するの?」ととても不思議そうに真顔で聞かれておどろいた。たあいないことであるが、この邪気のない不思議さに応えられる教師になりたいとぼくは考えた。

1時限45分間に、1年生から3年生まで、同時に授業を展開しなければならない。1年生と話して、ああ、たのしく話せたなと思う間もなく、自習している3年生を横目に、2年生のノートをのぞくこととなる。重複式授業は、文部省にも公式の見解のない、つまり、学習指導書に頼りようもない現場だった。それぞれの学年の教科書を開いて待っている子どもたちの前に立つと、何がとびだすか分からない。よほど教材研究をしたつもりでも、毎回の授業の終わりころにはアドリブで喋っているということとなる。

重複式の授業では、ひとつの学年の授業を進めるあいだ、他の2学年がどのように学習するかが課題となる。子どもたちの自主性なくして重複式学習を生きたものとすることはできない。しかし、その子どもたちの自主性、可能性を引き出す学習をどうすすめるかというところでつまずいてしまう。もちろんそれはそのとき始まったことではない。全国に徳山小学校と同じへき地校があり、学習方法はさまざまに論議され、各地の試みも発表されていた。県教育委員会指定の研究校の発表会もあった。へき地の重複式授業の実践はそれぞれに参考になり、教えられることはあったが、へき地がかかえる学校施設、教員、教材などに関する問題がありすぎるというのが実感だった。

教育の持続性の問題がある。実力ある若い教師が赴任して校内に新風をもたらすが、へき地教員は女性2年、男性3年を限度として転勤するので、地道な一貫した教育は根付かない。また、そうした問題以前に、教育の基盤をなす村は、自立しようとするかつてのへき地ではなかった。変動する社会の網の目からこぼれたようなこの村は、地域社会として成立しにくくなっていた。もうどうにもならない現実を断ち切る形で、人々は、目にはみえないが、村から脱出するきっかけを都会に求めていたのでなかったろうか。子どもたちの教育も、この地域に根ざすのでなく、都会へ出るための学力をつける学習が求められていた。ぼくは、そうした村の胎動をしっかりと見定めることができないままの日々だった。

「がらいこ」

ぼくは、低学年の授業で作文に力を入れた。赴任して初めて受けもった子どもが3年生になった冬、文集『がらいこ』を作った。おたまじゃくしのことをぼくの集落では「じょじょめ」と言ったが、櫨原集落の子どもは「がらいこ」と言う。春の田圃に水をひく溝に群れるあのかわいい蛙の子は、黒かったり、茶褐色だったりして、やがてそれぞれに成体となる。1年生から3年生までひとりひとりの自画像を版画に彫り、短文をつけた合同文集は、なかなかの出来栄えとなった。2年生だった島田とわ子さんの詩は『岐阜日々新聞』にも掲載された。


  かあちゃん
             2年 島田とわ子
 かあちゃんは田うえにいった。
 とうちゃんはいじまの田んぼへいった。土かただ。
 たいふうでながれこんだ石やすなを出さんならん。

 日がくれて、とうちゃんは家にかえってきた。
 あせ くさい。
 まだ かあちゃんはかえってこない。
 夕ごはんがすんでから
 やっと かえってきた。

 「今日は えらかった」といいながら、ていでんしていたので 
 ランプを とぼしてくれた。
 かあちゃんは 足も 手も びっしょりぬれていた。
 「かあちゃん さむか」とわたしが いった。
 おばあちゃんは、「あつい火に あたれ」といった。
		(『岐阜日々新聞』昭和42年2月27日)

子どもの作文から村の親たちの生活が伝わってくる。ぼくは教員住宅に泊まることもあったが、積雪の冬を除いて自宅から通っていた。村に帰ったぼくたち夫婦は父母と同居していたが、積雪期はフサヱさんも分校住宅に来て住んだ。

しばらくは分校まで、排気量50ccのカブの無免許通勤だった。無免許運転は村内では半ば公認で、駐在所の巡査を含めて誰もとがめる者はいなかった。村内に交通信号はひとつもなかった。

朝、ぼくが分校に着くころには、村人は仕事に出払って家にいない。子どもの親たちと話し合うことは少なかった。

分校勤務を始めた昭和40年は、秋になると台風が相次いで上陸して全国的に大きな被害がでたが、徳山村も例外ではなかった。9月14日夜の集中豪雨では小学校の本校校舎が倒壊して、校舎の下敷きとなった同僚の翠(みす)知春さんが殉職するという大惨事となった。村内の河川、道路、橋、耕地の被害は莫大で、村の田地のはおよそ四分の一を失うという打撃をうけた。谷川にそって造成されていた田地の多くは、流れ込んだ土砂で埋まったり、氾濫した水で敷地までごっそりと欠けて跡形なく流されてしまった。ほどほどの水田を持ち、比較的安定していた村人の生計が、これによってくずれた。決壊して切断された道路の復旧も、遅々として進まなかった。島田さんの作文は、そういう村人の暮らしの一日を影絵のように映している。

そんななかで奇妙に活気づいていたのが、災害復旧の土方仕事だった。公共土木事業の見積予算は甘く、災害復旧の土方仕事は儲かった。村内に15、6人のにわか請負師が生まれた。なかには、ブルドーザーなどの重機械は使わず、安い賃金で村人を働かせて儲けをあげる人もいた。多数の村人が、土方仕事に従って日銭をかせぐようになった。土木工事は、従来の炭焼き仕事に比べるとはるかに労力も少なく、容易に現金収入が得られた。自立しがたい貧しさのつきまとう村が、一時的ではあったが、未曾有の天災で皮肉にもうるおったようにみえた。

夏場だけの仕事という点では土方仕事も炭焼きと同じであるが、冬場3か月は失業保険金が給付された。これは村人の生活を支える一定の施策だったが、これで、冬場は村外で季節労務者となって、春になったら村に帰って働くという、以前のような出稼ぎは少なくなった。日銭で支える暮らしは、村人の意識を微妙に変えていた。そのころ、村の雑貨店でほうれん草が1把12円で売られた。売価の半分は運賃だというが、これが売れた。ほうれん草にかぎらず、失業保険金で野菜まで買うという仕組みが広がって、自給自足の村の暮らしは崩れていった。

そら手

分校生活も日を重ねるにつれ、村の子ども、大人の思いがけない一面をみることがある。

好天の一日、教室を離れて、近くの谷川へ遠足に出かけた。弁当を開くが、中身はお互いに隠し合って、離ればなれに背を向けて食べる。どうしてだろう。たのしい弁当なら輪になって手作りの弁当を見せ合って、食欲のはずむ時間であろうが、それがない。村のなかのつよい排他性が、無邪気な子どものこころにも影を落としている。そう考えたくなる一瞬であった。

遠足の帰り道にも、おどろくことがあった。年老いた村人が道端に坐っていた。彼女は疲れた表情でぼくらを待っていて、子どもたちのなかに、「おとご(末子)はおらんか」と言う。彼女は「そら手」になったが、「そら手は、縄でもなんでもいいから、おと子にしばってもらうとすぐに治る」ので頼みたいという。「そら手」は手首の捻挫だが、あいにく子どもたちのなかに末子はいなかった。彼女は、「そら手でなけりゃ、神経痛だな」と独り言のように言いながら去っていった。「おと子」に手首をしばってもらえばそら手が治る、というのをぼくは初めて知った。

しかし、分校教師は、村に仮住まいするよそ者の勤め人でしかなかった。一学期末のある雨の土曜日、その日も無免許のバイクで家に帰ろうとして、顔見知りの村人に会った。「よく雨が降って困ります」と声をかけると、彼から、「先生はいくら降っても困らん。家に帰って寝ころんどっても銭になる。この雨くらいは先生が帰りつくまでは降るといい」と軽口を返された。その目に悪意はなかった。勤めを終えて帰れば一日が終わる。気楽ないい身分の教師を見かけた村人が、率直な感想を口にしただけだろう。ただ、その軽口から、この雨のなかを田んぼ仕事に出かけるわが身をいとう実感が伝わってきた。ぼくは、言葉の接ぎ穂を失った。

その村人は、雨の日で土方仕事が休みとなり、田んぼへ出かけようとしていた。ぼくが村に帰った昭和40年夏、土方の普通日当はたしか男子1200〜1300円、女子600円位だった。雨の日に仕事はない。ぼくは教育職2等級12号俸、3万5200円、へき地4級手当20パーセントが加算される薄給だったが、現金収入の少ない村人の生活からすれば安定していると映ったのだろう。

つづく

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