コラム「僕は村の先生だった」

著者:大牧冨士夫さん
1928(昭和3)年、岐阜県の揖斐川上流、徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。戦争末期を新潟県村松の陸軍少年通信兵学校にすごす。戦後は、大学卒業後、岐阜市での業界紙記者づとめなどをへて、故郷の徳山村の小・中学校で教鞭をとる。かたわら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などにたずさわる。1985(昭和60)年、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。著書に、『郷土資料── 揖斐郡徳山村方言』、『たれか故郷をおもわざる』、『徳山ダム離村記』、『研究中野重治』、評論集『三頭立ての馬車』(共著)、『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などがある。

大牧冨士夫『ぼくは村の先生だった』の第一部『ぼくの家には、むささびが棲んでいた ーー徳山村の記録』発売中です。


第2回 病院、療養解除、復職

東海中央病院

1964(昭和39)年ころ、岐阜県下の教職員の結核患者は、主として東海中央病院で療養していた。この病院は、名古屋鉄道各務原線の飛行場前駅のすぐ前にあり、鉄筋4階地下1階建の大型の病院だった。

病状によって患者は病舎の各階に分けられていた。初診者は1階病棟に入れられる。そこで診断されて、2階でパスやストレプトマイシンなどが投与されて化学療養が始まる。化学療養で退院していく軽症者もいるが、重症で外科手術可能と判定されると3階に移される。外科手術は別に外科病棟があって、そこでされる。病院内では手術をオペというが、手術が成功してオペ室から生還する者もあれば、不帰の客となる場合も少なくない。手術にあたって、輸血する良質の血液が不足していたから、大量に輸血をするとたちまち肝臓がやられてウイルス肝炎となり、命を落とすことが多かった。ここで手術に成功して生還すれば、3階から4階の病室に移される。4階には、退院間近の患者もおれば、7、8年という長期の結核患者たちも入っている。かつての気胸など、成形手術に失敗した後遺症が残る古参患者らがいた。彼らは、手術された方の肩をがくんと下げて歩いているのですぐ分かる。

病院というのは不思議なもので、1階病室の患者は新参者であり、2階、3階と病状によって上の階に移り、4階で長期入院している重症患者は、いたわりと敬意のまざった妙な目で眺められるという、不思議な雰囲気があった。手術が成功して退院近くなれば、一気にこの古参患者並みの視線を感じるようになる。こういう患者たちの情報のあらましは、入院すると間もなく、誰からともなく耳に入った。

ぼくの病症は重いなりに安定していて、入院後すぐに手術予定者と認定されて2階に移り、ブロンコ検査をされた。ブロンコ検査というのは、ブロンコファイバーという内視鏡で肺の内部を診断する。くまなく検査して、ぼくは、右肺上葉切除ということに決まった。結核菌が球状にかたまっている右肺上葉を切除するという。

手術すると判定されても、いつやるのか、日程は分からない。正月は不安なまま病院で迎えた。友人、親戚が見舞いにきてくれる。あわただしく別れてきた生徒がくれる手紙を読むと、病気とはいえ関係する人々に迷惑をかけ、自分の勝手が責められて落ち着かない。あれこれと読書で気をまぎらす日々だった。

友人の国枝栄三は、永いカリエス闘病生活の前歴があり、病院生活の過ごし方に細かく気遣ってくれて、書見台を持って来てくれたりした。彼が来るとよく俳句の話をした。結核が死亡原因の第1位だった戦後すぐ、成形手術をうけて苦しみながら、すぐれた句を残した石田波郷など、結核を病んだ俳人が話題となった。国枝は、俳句は多く読むのでなく少なく深く読むのがいい、という考えで励ましてくれた。ただ眺めるように句集を手にしていたぼくは、たしなめられ、教えられたが、いつまでも俳句のよさが分からなかった。

3月となって手術日がせまり、執刀を担当される坂野先生の診断をうけたときは、さすがに緊張した。坂野先生にしてみたら生死をかけるほどの手術も日常のことだったろうが、ぼくにとっては肺切除という荒療治は人生の一大事だったから、全身がかたくなるようだった。

手術の何日か前に新聞を読んでいたら、その夏に岐阜市内のよく知っている会場で音楽会が催されるという予告記事があった。数日後のぼくの手術が失敗したら、その音楽会を聴くことはできない。しかし、音楽会はぼくの手術の結果がどうなろうと関係なく催され、大勢の聴衆はあの会場で音楽をたのしむだろう。そう考えるとぼくは、その聴衆にたまらなく嫉妬して、しばらく重苦しく不安定な気持ちをもてあました。

手術

手術日は3月11日だった。病室から12時にリカバリー室に移されて、消化器管の連動を抑制する硫酸アトロピンとか、麻酔導入薬オピスタンを注射される。手術は午後1時ころ始まった。手術室の前まで、連れ合いのフサヱさんが心配そうに担送車についてきたが、ドアが閉められ、大きな無影灯の下の手術台に載せられる。すぐに麻酔薬が注射され、意識を失うまで、一瞬のようだった。

手術は約2時間弱、右背中を切り開いて肋骨17センチメートルを切り、結核球のある肺上葉を取り除いた。皮下脂肪が2センチもあった。執刀医師が「これは切りでがあるぞ」と言いながらメスをあてていた、と、後でナースが話してくれた。3月末となったある日、自分の一部分であった摘出した肺を見せてほしいと頼んだ。医師はフォルマリン入りの瓶に浸けて名前も書いて保存してあるが、「大きかったぞ、まだ菌は死んでいない。見ないほうがいい」と、見せてくれなかった。

リカバリー室のベッドで意識がもどり、気がついてみるとその日は暮れようとして残光で部屋は明るかった。右肩がとても重かった。

オペの後には、肺活量を回復する機能訓練がきびしかった。測定器に息をいっぱいに吹き込み、自力で肺をふくらます。手術前より3割近く低下している肺活量はなかなか復活してくれず、元にもどるには1か月ほどかかった。

療養生活

手術後の経過はよく、病院での生活にも慣れて、ゆとりある時間がとれた日々だった。外出も自由だったので出歩き、国枝栄三ら「岐阜文学の会」の仲間と、三重県の詩人錦米次郎を招いて「働くものの詩の教室」を開くのを手伝ったりした。そのころの日記をみると、近代文学の作品における教師像をノートにとり、教師の生活、教育制度、とくに小学校教育をそのものを描いた作品が少ないと考えたりしている。また、中野重治のものをまとめて読んだりした。

中野重治は、1961年、日本共産党の中央委員に選ばれ、その後もその党活動と平行して文学の仕事を続けていたが、1964年9月に党から除名される。この年に発表された論文、小説は、そうして緊迫した状況にある自己の立場と意見をひろく説明したものが多く、共感して読んだ。

1964年11月19日、名古屋市内の電々会館で新日本文学会会員有志による「中野重治氏を激励する会」が開かれ、中野さんは「最近の行動をかえりみて」と題して講演した。開催が決まってから数日という準備不足であったが百名近い人が集まり、ぼくも吉田欣一さんと一緒に出かけた。

講演の前のわずかな時間をさいて、吉田さんは中野さんに詩集の題字を書いてもらった。休憩していた旅館大津荘の2階の小部屋で、中野さんは初め小机に向かって座り、筆をとった。筆軸の元近くを指先でつまむようにして持ち、一気に幾通りか書いた。しかしそれでは気に入らないらしく、中腰になり、片腕をのばして紙を重ねて掲げるように持ち、筆を持った方の肘を水平に上げ、紙面をにらむようにして幾通りか書いた。それでも気に入らないようで、立ち上がって足をややひらき、やはり腕をのばして紙を支え、筆軸は元近くを軽くつまむように持ってまた幾通りか「吉田欣一詩集」の6文字を書いた。そして、この中から気に入るものを選ぶように言いおき、階段を下りていった。わずかな時間だったが、物事をゆるがせにしない中野さんの一面を見る思いがした。

題字を書いてもらうとすぐ大津荘から当夜の講演会場である電々会館に向かった。タクシーに何人かで同乗して、助手席に座った案内役のぼくは会場への略図を見ながら順路を説明しようとした。ところが運転手にうまく伝えられなくてまごついていると、後ろの座席にいた中野さんが、「その略図を運転手に渡せばいい」と言われた。まったくその通りである。略図を見た運転手はさっそく見当をつけて走り出した。そのときの中野さんの実地に即したひと言は今も心に残っている。

その夜、中野さんは講演が終わると帰京した。続いて神山茂夫さんが「中野と行動を共にした友人として」と題して話した。当夜の二人の講演は、録音テープをぼくが持ち帰り、何日かかけて文字化し、岡田孝一が発行する『パルチザン通信』第9号に発表した。講演記録の印刷は、当夜の参会者からも多くの希望の声があり、岡田の努力によって実現した。録音テープは雑音もあって聞き取れないところもあったが、多忙な中野、神山の両氏には発行者の責任で読み直してもらわなかった。それだけに、質疑を含めて当日のありのままの緊張した空気を伝えてもいる。

当夜の会では主催した新日本文学会会員有志が長文のアピールを発表した。その一節には、「古来、文学者であって革命家・政治家であったものは少なくない。彼ら全部が、その文学とその政治活動を一体となそうと志し、こんしんの力をふるったとは言いえないだろう。彼らのうちの少数者のみがそれを志し、こんしんの力をふるったと言いうるだろう。─そして、中野重治氏は、そのようなひとの一人である。」と書かれている。

療養解除

1965年10月、とりあえず退院はしたが、療養解除の審査は年を越して2月だった。3月から学校へ出勤すると、校長は、村での復職には責任をもたないと意地のわるい嫌みを言った。結核休職者が現場へ戻ることは、県教育委員会では当然の方針としていた。その当たり前のことを校長が認めようとしないで、「教育正常化」問題へのぼくの態度に関して、あからさまに「思想がわるい」とまで言われるのが当時の現場の実態だった。現場復帰のための駆け引きは、4月の校内人事でぼくが分校へ配置されることが決まるまで続いた。

つづく

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