- 著者:大牧冨士夫さん
- 1928(昭和3)年、岐阜県の揖斐川上流、徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。戦争末期を新潟県村松の陸軍少年通信兵学校にすごす。戦後は、大学卒業後、岐阜市での業界紙記者づとめなどをへて、故郷の徳山村の小・中学校で教鞭をとる。かたわら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などにたずさわる。1985(昭和60)年、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。著書に、『郷土資料── 揖斐郡徳山村方言』、『たれか故郷をおもわざる』、『徳山ダム離村記』、『研究中野重治』、評論集『三頭立ての馬車』(共著)、『中野鈴子 付遺稿・私の日暮らし、他』などがある。
大牧冨士夫『ぼくは村の先生だった』の第一部『ぼくの家には、むささびが棲んでいた ーー徳山村の記録』発売中です。
第1回 教師、肺病、手術
やっとこ教師
昭和38年4月末、35歳を目前に、やっとのことで教師に採用されて村での生活が始まった。ぼくは、戦前、国民学校高等科を卒業したばかりで臨時採用教師となった経験がある。だから今度は二度目の母校の教壇だった。前回は、軍需景気でぼくの世代は産業戦士とおだてられて引っ張られ、僻地の国民学校教師はなり手がなくて、たまたま村に残っていたぼくにお鉢が回ってきた。今度も高度経済成長景気のなかで僻地を嫌った初任の教師が遁走してしまい、その穴埋めのどさくさにやっとこさ採用された。つまり、やっとこ教師であるが、ぼくとしては、故郷の母校で役にたち、父母と一緒に暮らせるのだから文句はない。
やっとこ教師の徳山小学校は、岐阜市からバスで約1時間半、そこから1日3往復、片道約1時間の中型バスに乗り換え、標高625メートルの馬坂峠を越して入る越前境の村にある。5つの分校があり、全校の児童数は319名。本校には1年生から6年生までで159名いた。
教師は、校長、教頭の他は1学年1学級を担任し、本校に6人、養護教諭が1名いた。分校は、1〜3年生で1組、4〜6年生で1組の重複式学級だったので担任は1分校に2人で全10名、ほかに本校に担任をもたない教師が1人いたから教師は合わせて20人だった。そのうち本校で普段顔を会わせるのはその半分だった。これらの教師たちが、自宅通勤のぼくを除いて、学校から見える近さの2階建て一棟、トイレ風呂共用の住宅で生活していた。職住一致といえば聞こえはいいが、私生活もまるごと一緒の生活は窮屈だったろう。しかし僻村の財政は教員宿舎増設にまで手が回らなかった。
本校校舎は、昭和29年の本郷集落の大火で類焼して、翌年再建された木造二階建てで、13教室あった。給食は前年から始められていた。小学校のころ1学年上で仲のよかった村山さんが給食の手伝いをしていて、教室でのなれない配膳でまごまごするぼくはずいぶん助けられた。
校舎は、江戸時代からの留山として伐採を禁じられてきた南向きの闊葉樹林を背にしており、本郷集落を見下ろす位置にあった。せまい運動場の東は増徳寺境内に連なり、ここに卵塔場があった。累代の先祖の霊の眠る卵塔場の大樹は先の大火で類焼してなかったが、数々の墓石は、ぼくが通っていたころと同じ佇まいを残していた。
ぼくが担任した3年生の教室は、木造二階建て本校舎の二階、階段を上ってすぐのところにあり、男子20名、女子7名がいた。ぼくが小学校で同級生だった友人の子どもをまじえて、多くの親はぼくより3つ、4つ年上の顔見知りばかりであった。親しさはあるが、そこには心安さにあまえられない一面があり、ぎこちなさが残った。
子どもたちは元気だった。利かん気の子、弱虫の子、甘えん坊、利発な子、それぞれに三年生のままの顔が浮かぶ。ある朝登校すると、駆け寄ってきた一人が「きんのう(昨日)はひんび(青大将)を退治した」と誇らしげにいう。彼は、放課後、村の田圃の畦で1メートル余の大ひんびを見つけた。蛇がにょろにょろと逃げるのを追いつめて、はま(石垣)に這りこもうとしたところでやっと、素手でおんぼ(尻尾)を捕まえた。青大将は石垣に半分ほど入りこみ、力まかせに両手で引っ張っても出てこない。そこでひんびと彼の闘いが始まった。引っ張り合いの末、石ころで叩いて蛇の尾の皮はずるずると剥けたが、蛇はそれでも出てこない。ついに蛇は全身を現すことなく息絶えた。彼はその徹底して退治した顛末をさらりとぼくに話して、仲間との朝の遊びに戻っていった。
そういう山の子どもたちが、やっとこ教師の仲間だった。ぼくは蛇と彼との徹底した根性ある闘いから学ぶところがあったのだろうか。
昭和38年は、当時の松野知事、文部省から出向してきた高石教職員課長等が、「教育正常化」と称して岐阜県教職員組合組織への破壊攻撃をし、組合は分裂し、組合員が激減した年だった。県下の学校教職員は、校長や教育委員会によって日本教職員組合からの脱退を露骨に迫られた。相次いで組織は欠け、徳山小学校も例外ではなかった。
9月、運動会が終わった後の慰労会で、なれなれしく話しかけてきた校長は、ぼくの教職採用については村長らのつよい反対があった。学校外部との交流には気をつけてほしい、とささやいた。
組合分会会議は11月だった。放課後の会議に、校長と教頭が出てきて座り込み、動かない。「立場のちがう意見も聞きたい」というおためごかしの意見を出して、話し合いに加わってくる。「教育正常化」とは、権力の介入による組織破壊だった。組合脱退の諾否を問われたその日の分会会議は、夜遅くまで6時間に及んだ。校長は、日教組から脱退するかどうかは個人の自由である。しかし、脱退しない場合、後の責任はもてない、とくり返して、暗に不当な配置転換をほのめかして陰湿に脅迫した。校長、教頭は、分会ごとまとまっての組合脱退を狙っており、各人が脱退するかどうかが、管理職としての彼らの「勤務評定」基準ともなっていた。
会議はよそよそしく長びき、いたずらに時間ばかりかかった。とてもまとまりそうになかったので、ぼくは、こうした職員数の少ない職場では、あえて結論を求めるのでなく、態度保留にしよう、と発言した。とたんに校長、教頭、中堅配置教員は、「態度保留の権利をいうなら、義務もきびしく守ってもらう」と居丈高に反論してきたが、果てしない長談義に嫌気のさしていた職員はどやどやと立ち上がって、会議はうやむやに終わった。
次の日から、職員間に気まずい後味のわるさが残り、校長は個別で職員に脱退を求めた。脱退を承知しなかった若い女教師は、職員室で校長から、「そんな奴とは思わなかった」と罵られた。とっさのことでおどろいて顔をあげる間もない一瞬であったが、その場で即座に抗議しなかった自分を今も恥ずかしく思い出す。彼女は音楽教師として子どもからも好かれていたが、校長から意地汚い仕打ちを受けた。彼女は臨時採用身分だったので、勤務2年目、それも卒業式の前日に、村の予算削減という名目で学校を追われた。
その年の暮れ近く、揖斐郡教職員は臨時大会を開いて、岐阜県教職員組合から賛成多数で脱退した。そして新たに揖斐郡教組をつくった。そこでは、県教組=日教組に二重加盟してもよい。今後も日教組と共闘する。新しい郡教組は第二組合的組織に入らない、という規約に優先する付帯3項目をつけたのがせめてものことであった。
電灯ともる
そのころ父は、持病の胃痛に悩まされながら、母と二人で少しばかりの水田で稲作しながら、炭焼き仕事に精を出していた。現金収入は炭焼きで得た。父の日記によれば、この年5月に仕事始め、11月、山々に初雪をみるころ仕事納めをしている。5窯の木炭生産は249俵、これを仲買人に売って約11万円ほどの収入を得て、これが父母の生計の基本となっていた。病弱の父の仕事はゆっくりとしたものだったが、これが当時の村人の平均的な現金収入に近いとみていいのでなかろうか。昭和38年の小学校教員の初任給が14,300円だった。村人の現金収入の低さはこれからも想像できる。
そのころ村内をゆるがしていたのは、中部電力の給電を受けいれるかどうかの電気導入問題だった。
村には、 昭和25年から各地区に自家用発電設備が作られたので、電灯はあった。しかしこれでは1戸1燈ほどの電力しか得られなくて無電灯に近く、改善が求められていた。そこで徳山電気組合では、農村電化促進法を受け入れ、中部電力の配電を受けようとした。ところがこれに反対して自家用発電設備の存続を主張する村民がかなりいた。彼らの主張の根底には、電源開発株式会社が村内で行っていたダム建設調査への思惑があった。中部電力の配電を受容すると、将来ダムが建設されるにあたり、水利権補償要求の権利を失ってしまうというのであった。この対立ははげしく、ある時自家用の電柱が一方的に切り倒され電線を取り外す事件も起こり、感情的な争いとなった。
村内の重苦しい空気のなかで、電灯だけは明るくともった。全国でも珍しい「無灯火村」の名を返上したのは、昭和38年7月25日だった。その前日に長女育子が生まれた。電気工事の配線をしていた人たちから「文化の子」だ、と言われたのが今もわが家の語りぐさとして残っている。
ダム話の迷走
徳山村にダム建設の話が正式に持ち込まれたのは昭和32年末だった。電源開発株式会社の調査区域に指定され、同社は土地立入、立木伐採の許可を求めた。村民が、調査と建設承諾は別である、という話を信じて調査を認めたときから、ダム補償という蜃気楼を追って村人の迷走は始まった。昭和38年に、同社は「多目的ダム」が適当であるとして調査をうち切ったが、誇大なダム補償話は終わることがなかった。
昭和36年春、父と母は、新田作りに取りかかった。ともかく父は、この村で生き延びるために少しでも自前の水田を増やそうとしたのだった。それが戦後の「困窮どき」を切り抜けた智恵であった。道具といえば鍬とツルハシと土を運ぶモッコがあるだけの自力で、雑草の生い茂る荒れ地に一年がかりで2アールほどの新田を作りあげた。田圃といっても泥土のない、荒れ土の平面を均しただけのものだった。その一方で、父の日記を見ると、ダム補償のうまい話に心は動かされ、新聞にダム計画の記事が載ると関心を寄せていたのがわかる。老いた病弱の父は、心のどこかでダム計画を待っていた。当時、新聞はどこの家でも購読していたわけではなかった。村内469世帯で役場、学校などを含めて92部、ぼくの住んでいた開田地区95世帯のうち6部だけという記録が残っている。新聞にダムの記事が載ると近所の人が読みにきていた。
結核発覚
その年も暮れようとするころぼくの身に一大事が起こった。2学期末に、完治したと思っていた結核が再発しているのが分かった。教員は年2回の厳格な検診があり、秋の2回目の検診で判明した。当の本人がおどろくような知らせだった。
病院に行ってみると、右肺上葉部に結核菌が大きな球体状にかたまって静止状態にあるという。このまま安静にして療養するか、手術して除去するしかないという診断だった。ぼくはそのころ始業前に子ども達と村内約500メートルのマラソンを毎朝続けて体力に自信があり、何かの間違いではないかと思ったほどだった。しかし結核の前歴はあるので、診断の通りなのだろう。これは発見されたのでなく「発覚」したのだと思った。
6月ころにあった一斉検診でなぜ発見されなかったのか。それは徳山小学校に限り、その一斉検診がなかったからである。当時の大型の結核検診車は、山路の屈折した徳山村まで入ってくるのを嫌った。また、中電導入の前で、たとえ検診車が来てもレントゲン撮影の電源がない。そんなあれやこれやで、平坦部から赴任してきた教員は、出張などで村から下山したときに適宜受診すればいいということになり、ぼくは受診しないままで終わっていたのだった。
しかし、結核患者であると分かっては教壇に立つことはできない。不運なのは3年生の子ども達で、彼らは、4月に新任教師に置いてけぼりになり、その年末にまた担任教師を失った。これには責任を覚えたがどうしようもない。ぼくは、2学期の通知表を書くのもそこそこに、教員向けに設けられていた各務原市の東海中央病院に入院した。
昭和39年の正月は病院で迎え、同年3月11日に右肺上葉切除の手術をうけて、10月30日に退院した。手術の前後は病床から離れられない。ぼくはもっぱら中野重治を読み、短い文章を書いていた。
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